個の文化、集団の文化
―国立国語研究所はこう変わった
国立国語研究所
所長 影山 太郎

影山 太郎

日本文化が集団の調和を尊び、欧米の文化が個の特性を重視することはよく知られている。しかし、自分の職場が関西から東京に移ると、この異国間の文化の違いを日本国内の東京と関西の間にも感じる。とりわけ強く感じられるのは、東京の会議は「堅苦しい」ということである。会議の議長をしていて、出席者の気持ちを和まそうと冗談を言いたくても、とてもそのような雰囲気にない。関西の大学なら教授会で学部長は関西弁で冗談を交えて議事進行を行うのに、東京の大学の教授会では学部長が冗談を言うことはほとんどないそうだ。日常会話で関西人は相手の言った言葉に「突っ込み」を入れる。東京人には恐れられる、あの突っ込みだが、関西人にとっては、それがないと、つまらない会話になってしまう。あるアメリカ人が「日本人は会話の途中ですぐに黙ってしまう。私たちアメリカ人には沈黙は耐えられない」と言っていたのを思い出す。アメリカ人にとっては、会話というのは卓球やテニスのラリーのように常に自分と相手の間に言葉が行き交うものであり、「沈黙」があると不気味に感じる。それは、アメリカ人が個人を尊重するからであり、常に相手の言い分を聞き、また、自分のことを相手に伝えなければ気が済まないという個の文化が背景にある。

その点で、関西の文化はむしろ英語文化に近いように思える。もっとも、一括りに「関西」と言うのは大きな誤りで、大阪、神戸、京都がそれぞれの個性を競っているが、特に大阪人は、たとえば豊臣秀吉のことを、親しみをこめて「太閤はん」とか「秀吉はん」と呼ぶ。これは英語で、目上の人でもファーストネームで呼ぶのと似ている。他方、東京の人にとって徳川家康は「家康公」であって「家康さん」ではないだろう。言語学では、会話の作法は「ポライトネス」という概念で研究されている。ポライトネスとは、話し相手に対して失礼のない言葉遣いをすることであり、積極的ポライトネス(positive politeness)と消極的ポライトネス(negative politeness)に分かれる。消極的ポライトネスとは、話し相手の自立性を尊重し、相手とは心理的に距離を置いた話し方をすることであり、日本語の「敬語」はだいたいこれに当たる。つまり、相手を奉り(尊敬語)、自分は謙る(謙譲語)というのは、偉い人に対して距離を置こうとする消極的ポライトネスに基づいている。他方、個を尊重する欧米文化では、自分と相手は人間として対等であるという考え方がベースにあるから、言葉遣いの上でも相手との距離を縮め、ファーストネームで呼び合うことがむしろ礼儀作法にかなう。これが積極的ポライトネスである。大阪人が会話で突っ込みをいれたり、大学の教授会で冗談を言ったりするのも、積極的ポライトネスによるものと捉えられる。

集団の画一性を尊ぶことは、確かに日本文化の美質と言えるだろう。しかし生活のあらゆる面がそれであっては困る。とりわけ、学問の世界に画一性は無用である。学問の世界に求められるのは「個」を最大限に伸ばすことである。個の能力を伸ばすことで、学問全体のレベルが向上する。研究者が持つ「個の文化」を尊重することこそが、新しい事実の発見や、新しい技術の開発につながる。与えられた仕事を指定された期限までにそつなく片付けるだけなら、個を尊重することは却って非効率的だろう。しかし新しい領域の開拓には、個が持つ創造力と想像力が原動力となる。その意味で、「事業仕分け」という集団の論理で学術における個の文化を規制しようとするのは、見当違いとしか言いようがない。それが如実に表れたのが、「なぜ日本のスーパーコンピュータが世界一でなければならないのですか? 世界二位ではいけないのですか?」という仕分け人の発言である。学術にとっての世界一というのは数字ではない。新しいものを創造する人にとっての「世界一」とは、「世界中でこれまで誰も知らなかったことを自分が発見する」、「世界で誰も作ったことのないものを自分が開発する」という意味である。これは、学問だけでなく、芸術その他、すべてのモノ作りに通じ、そこでは、「世界でこれまで誰も成し遂げたことがないものを作りたい/発見したい」という個々人の想いが最大かつ唯一のモチベーションとなっている。集団の論理で学問を統制しようとするのは、個の破壊と等しいのである。

繰り返すと、真にオリジナルな領域を開拓するためには「個」の尊重が必須である。こんな当たり前のことをくどくどと書いたのは、旧・国立国語研究所がそのような当たり前の文化になかったからである。国立国語研究所は、昭和23(1948)年に文部省直轄の研究所として設置され、その後、文化庁の直轄を経て、平成21年9月30日まで独立行政法人として機能した。そこでの業務は、全国方言地図や現代日本語コーパスなど世界に誇れる成果を挙げたものの、残念ながら、基本的なスタンスは「集団の文化」重視だった。その結果、それらの研究業績はすべて、「国立国語研究所」の名前で発表され、実際にそこに携わった個人の氏名は表に出てこない。そんなことは、普通、学術研究ではあり得ない。ある大学のA教授が本を書いたが、その本の表紙にA教授の名前ではなく○○大学の名前が書いてある―― 旧・国研は実際にそんな状態だった。しかし、大学共同利用機関法人 人間文化研究機構の中に入った新・国語研は、「個」すなわち一人一人の所員を大切にする体制に生まれ変わった。これから出版される本や論文は、「国立国語研究所」ではなく所員の個人名になる。一見ささいなことと思えるかも知れないが、集団の文化から個の文化を尊重する体制に変わったことは、本研究所が、純然たる学問の場として新たな領域の開拓に着手できるようになったということである。

公開シンポジウム「ウチから見た日本語,ソトから見た日本語」
公開シンポジウム「ウチから見た日本語,ソトから見た日本語」

新生・国立国語研究所は、独立行政法人としての国研が行ってきた事業の重要な部分を承継しながらも、これからは所員一人一人が各自の「個」を思う存分発揮し、社会の多方面に貢献する言語研究へと向かっていく。平成21年12月5日に有楽町朝日ホールで開かれた人間文化研究機構・国立国語研究所主催の公開シンポジウム「ウチから見た日本語,ソトから見た日本語」は、雨天にもかかわらず400名近い聴衆を集め、地方の方言の大切さ,幼児の言語習得の不思議さ,国語表現教育の重要さ,諸外国語との対比における日本語の普遍性と特質など、充実した討論が行われた。始動したばかりの様々な共同研究プロジェクトは、国内および海外の第一線の研究者たちの協力を得て、これから3〜4年先には大きな成果をグローバルに発信できるはずである。特に注目していただきたいのは、(1) 理論・構造研究系と言語対照研究系が取り組んでいる「世界の中の日本語が持つ特質の理論的・記述的解明とその研究成果のグローバルな発信」、(2) 時空間変異研究系を中心とする「消滅危機方言の大規模な調査・保存を通しての世界的な危機言語活動への貢献と国内地域社会の活性化」、(3) 言語資源研究系による「現代語・古典語コーパスの開発・構築と、社会諸方面(言語研究、日本語学習、文筆業、マスコミ、自動翻訳等)への有効活用」、(4) 日本語教育研究・情報センターと各研究系のコラボレーションによる「日本語教育・日本語学習の諸問題に関する実態調査・実証的研究と、日本語教育の効率化や異文化摩擦の解消」。新・国語研は、これらの研究を通して人間文化の本質を明らかにすると共に、社会の諸方面に貢献していく。ご期待あれ。

(平成22年01月13日掲載)

 

著者プロフィール

影山太郎(かげやま・たろう)

専門は言語学、日本語学,英語学。 Ph.D.(南カリフォルニア大学,昭和52年)
関西学院大学名誉教授、平成21年10月より現職。
著書『日英比較 語彙の構造』(昭和55年)で市河賞、『文法と語形成』(平成5年)で金田一京助博士記念賞を受賞。

※著者の肩書きは掲載時のもの

 

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